内定後の給与交渉で、交渉したこと自体を理由に内定が取り消されるケースは、起きにくいと考えてよさそうです。
根拠は2つあります。ひとつは、内定は法的に「労働契約の成立」と扱われ、その取り消しは解雇と同じ厳しさで判断されること。もうひとつは、内定を出した時点で、会社は「この人を採る」と決め終わっている状態だということです。
ただし、言い方と順番を間違えると、取り消しではなく「心証」の形で跳ね返ってきます。この記事では、根拠2つ、危ない言い方3つ、安全に進める順番4つを書きます。すでに承諾の返事をした人は、後半の「よくある質問」から読んでください。
私の場合、この記事とは逆のことをしました。取り消しや心証が怖くて、面接で希望額を聞かれたときに、自分から低めの数字を答えたのです。書類も含めて二桁落ちたあとに、やっと最終面接まで進んだ1社でした。失いたくない気持ちが先に立ち、交渉は起きず、提示額はそのまま固定されました。「交渉して取り消された」経験ではなく、「交渉しなかった代償」を払った側の記録として、この記事を書いています。
内定後の給与交渉で取り消しが起きにくい根拠2つ
「交渉したら内定を取り消されるのでは」という不安は、内定という状態をどう見るかで、だいぶ変わります。法律の面と、相手の立場の面から、1つずつ書きます。
根拠1 内定は「労働契約の成立」と扱われ、取り消しは解雇と同じ基準で判断される
採用内定は、口約束ではありません。厚生労働省(茨城労働局)の労働相談Q&Aでは、採用内定通知は労働契約の申込みに対する承諾であり、応募者と会社の間に、就労開始日までの解約権を留保した労働契約が成立したと解するのが相当、と説明されています。そのうえで、内定の取り消しには、客観的・合理的と認められ、社会通念上相当と是認できる理由が必要になる、とされています(出所: 厚生労働省 茨城労働局「内定が取消された」)。
この考え方のもとになっているのが、最高裁判所の昭和54年7月20日判決(いわゆる大日本印刷事件)です。採用内定の通知と誓約書の提出により労働契約が成立したと認められ、取り消しが許されるのは、採用内定当時に知ることができず、知ることが期待できないような事実があり、それを理由に取り消すことが社会通念上相当と認められる場合に限られる、と判示されています(出所: 裁判所 裁判例検索「昭和54年7月20日 最高裁判所第二小法廷判決」)。
そして、成立した労働契約を会社側から解約すること、つまり解雇は、労働契約法第16条で、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は権利を濫用したものとして無効、と定められています(出所: 厚生労働省「労働契約(契約の締結、労働条件の変更、解雇等)に関する法令・ルール」)。
「希望年収を伝えた」「提示額について相談した」は、内定を出した時点で会社が知りようのなかった事実ではありませんし、それだけで解雇に相当する理由になるとは考えにくい、というのが私の理解です。ただし、私は法律の専門家ではありません。個別の事情で判断は変わりますし、法令や解釈は2026年9月時点のものです。ご自身のケースは、労働局の相談窓口や専門家に確認してください。
根拠2 会社は「この人を採る」と決め終わったあとの状態
もうひとつは、法律ではなく相手の立場の話です。内定は、書類選考と複数回の面接を通して、会社が時間と人を使って「この人を採る」と結論を出した状態です。ここで内定を取り消すと、会社は選考を最初からやり直すことになります。給与の相談をされたからといって、それを選ぶ会社は多くないだろう、というのが2つ目の根拠です。
言い換えると、内定後は、転職活動のなかで応募者の側の立場がいちばん強くなる局面です。私はこれを、入社したあとで知りました。
それでも危ない言い方3つ
取り消しは起きにくくても、心証は動きます。心証が悪くなると、入社後の評価や配属に影が残るかもしれません。私が振り返って「これは言わなくてよかった」と思う言い方は3つです。
- 要求の形で言う — 「○○万円でなければ辞退します」のような条件提示は、相談ではなく通告に聞こえます。数字が同じでも、「○○万円に近づけていただくことは難しいでしょうか」と聞く形にすると、相手は検討の余地を持てます。
- 他社の内定をカードとして出す — 「他社は○○万円出すと言っています」は、事実であっても、天秤にかけていると受け取られます。他社の提示に触れるなら、「御社を第一に考えています。そのうえで一点だけ相談させてください」のように、志望の順位を先に置きます。
- 感情を混ぜる — 「この額では正直がっかりしました」「生活が苦しいので」は、相手が答えようのない話です。交渉の材料は、自分の経験と、その会社で担う役割に対する妥当性に絞ります。
3つに共通するのは、「相手が首を縦に振りやすい形になっているか」です。断れない要求は、相手にとって取り消しか承諾かの二択になってしまいます。取り消しを避けたいなら、相手が断りやすい形にもしておく必要があります。
私の場合。取り消しが怖くて、希望額を自分から下げた
最終面接の終盤で、希望年収を聞かれました。私は少し考えて、「現状維持でも構いません」と答えました。丁寧に答えたつもりでした。頭にあったのは、二桁落ちたあとにやっと最終面接まで来たこと、ここで欲を出して落ちたら振り出しに戻ること、そして「年収の話をしてくる人」と思われたくないことでした。
数日後に届いた内定通知の提示額は、私が言った「現状維持」に、ほぼそのまま合わせた数字でした。取り消しは起きませんでした。交渉も起きませんでした。自分で口にした下限が、そのまま提示の上限になっていました。額が決まったのは内定が出たあとではなく、面接であの一言を答えた時点で、通知が届いてから動かせるものはもう残っていませんでした。
あとから振り返ると、私が恐れていた「取り消し」と「心証」は、どちらもこの時点では起きようがないものでした。内定はまだ出ていなかったので取り消されるものがなく、心証については、希望額を聞いてくる時点で、会社は答えを聞く準備をしていたからです。恐れの対象を取り違えて、交渉の機会そのものを手放した、というのが私の一次情報です。
年収を動かせるのが入社前の1回だけであることと、応募前・面接・提示後の3段階については、年収は、入社したあとでは上がらないに書きました。
取り消されないための順番4つ
やり直せるなら、この順番で話します。内定の提示を受けたあと、承諾の返事をする前が想定です。
- 働きたい気持ちを先に置く — 「内定をいただきありがとうございます。御社で働きたい気持ちは変わりません」から始めます。相手に「辞退の前触れではない」と伝わる一文です。
- 相談は1点だけに絞る — 基本給か、年収の総額か、どちらか1つです。休暇や勤務地や役職まで並べると、条件を並べ立てる人に見えます。
- 理由を2つ添える — 「現職の年収との差」と「担う役割に対する水準」のように、自分の都合ではなく、相手が社内で説明に使える理由を2つまでにします。
- 難しければ承諾する、と先に言う — 「ご検討が難しい場合でも、入社の意思に変わりはありません」と添えます。相手に断る余地を渡すことで、通告ではなく相談になります。
文章にすると、たとえばこうなります。
「内定をいただき、ありがとうございます。御社で働きたい気持ちは変わりません。そのうえで、一点だけご相談させてください。ご提示の年収について、現職との差と、お任せいただく役割を考え、○○万円に近づけていただくことは難しいでしょうか。ご検討が難しい場合でも、入社の意思に変わりはありません。」
この形なら、相手は「検討する」「難しい」のどちらも選べます。取り消すという選択肢が、そもそも出てきにくい書き方です。私はこの文章を、内定通知が届いたあとに頭の中で何度も組み立てました。送りませんでしたが、いま同じ場面に立つなら送ります。
年収が固まったあとには、退職の申し出と引き止めが待っています。その段取りは内定が出てからが本番だった。退職交渉と引き止めに書きました。
よくある質問
承諾したあとに、交渉し直せますか
難しい、と考えておいたほうがよさそうです。承諾は「この条件で働きます」という返事なので、そのあとに額を動かしてほしいと言うのは、合意のやり直しになります。相手が応じる義務はありません。承諾の前に「回答期限までに一点相談させてください」と伝えておくのが、順番としては安全です。私は承諾の前にも後にも何も言わず、そのまま入社しました。
メールと面談、どちらで伝えるほうがいいですか
オファー面談の場があるなら、その場で口頭が自然です。ない場合や、面談で言い出せなかった場合は、メールで構いません。メールの利点は、働きたい気持ち・1点・理由2つ・難しければ承諾、の順番を崩さずに書けることです。口頭で緊張して要求の形になるより、文章で相談の形を保つほうが、私には向いていたと思います。
エージェント経由の場合は、自分で言わないほうがいいですか
エージェント経由なら、年収の相談はエージェントを通すのが基本です。会社と応募者の間に立って条件を調整するのは、エージェントの役割の中心にある仕事だからです。ただし、頼む内容は自分で決めます。「○○万円を希望。難しければ提示額で承諾する」と、上限と下限を伝えたうえで任せます。何を任せて何を任せないかは、転職エージェントは使うべきか。任せていいことと、任せてはいけないことに書きました。
注意していただきたいこと
これは私1人の経験にもとづくものであり、うまくいくことをお約束するものではありません。効果や結果には個人差があります。業界や会社の規模、給与テーブルの固さによって、交渉の余地はまったく違います。法律の説明は2026年9月時点の公開資料にもとづく私の理解であり、個別の判断はご自身で労働局や専門家に確認してください。
それでも、取り消しを恐れて希望額を自分から下げるより、相談の形で1点だけ聞くほうが、あとで悔いが残らなかったはずだ、という一点は、いま振り返っても変わりません。
この記事で書いた「働きたい気持ち→1点→理由2つ→難しければ承諾」の順番を、そのまま送れる文面にした年収交渉スクリプトは、職務経歴書テンプレートと想定問答50問、落ちた理由の分類表と合わせて、noteの実務セット(9,800円)にまとめています。必要になったときに開いてください。二桁落ちてから作った、転職の実務セット(9,800円・note)


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